焦っているという話

想い

最近、よく思うのが、街中で聞こえてくる言葉がやたら「きれいな日本語」なことだ。

すれ違う人の会話、地元のラジオ、子どもたちの遊ぶ声……ふと聞こえてくる言葉のイントネーションが、自分が子どもの頃から聞いてきたそれとは違っている気がする。

この「きれいな日本語」を聞くたび、寂しさを感じる。

子どもの頃、そこにあった世界がどこにも無くなる感覚。

仕方のないことと考えて、今までも何も感じない振りをしてきたが、ふと、「昔の先人方はもっと強く、喪失を感じている/いたんだろうな」と思い当たった。

先人達にとっての「当たり前の世界」と今の世界との違いは、自分にとっての「当たり前の世界」よりも、もっともっと大きいだろうから。

なんとなく、自分にとっての今の世界が、「先人達にとってのいつ頃」に当たるのかを考えることで、現在地を知りたくなった。

先人代表には、自分の父親に立ってもらうことにした。

生年から計算すると、父が37歳だか、38歳だかの頃に自分は生まれたらしい。

父の世代での沖縄語の浸透度はというと、

  • 同級生との会話もほぼすべて沖縄語
  • 仕事上の会話も、相手が沖縄人であれば沖縄語

といった具合だ(もちろん個人差・地域差はある。上は父の例)。

対して、自分達の世代はと言うと

  • 実家での会話はウチナーヤマトグチ
  • 同級生との会話(子どもの頃)は、日本語寄りのウチナーヤマトグチ
  • 同級生との会話(現在)は、完全な日本語
  • 仕事上の会話は完全な日本語

となっている。

正しい研究手法ではないのは承知だが、肌感覚としての、世代間の沖縄語の失われ方を表せたような気がする。

つまり、ある世代から40年弱あとの世代では、沖縄語を使える場面がすっかり減り、日常生活に完全な日本語1が登場するという変化が起きている

じゃあ、そこからさらに40年後の世代ではどうなるのか?というと……想像するのもつらい。

自分は先日、30歳になった。

「想像するのもつらい世界」がすぐ目の前に来ているという危機感は、ずっと前から感覚として持っている。きっと、上で予想したよりも早く来ると思う。世の中の変わるスピードがどんどん早くなっている気がするから。

出来ることなら世界を変えたい、でもそれが難しいのは知っている。

だからせめて自分自身は、「子どもの頃当たり前だった世界」や、「自分が生まれる前当たり前だった世界」への想いを大事に持っていたい。

そして、近い人々と想いを共有しながら、どこかにいる同じ感性を持った人へ細々と発信を続けられたらと思う。

  1. ここで言う「完全な日本語」は、普通のウチナーヤマトグチとの対比として、沖縄語要素がほとんど抑えられているウチナーヤマトグチのことを指す。 ↩︎

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